校長講話 抄録

  おはようございます。今週は、今日は生徒総会、1年の活動の方向をみんなで確認してください。29日の火曜日には、授業参観、そして私たち大人が総会、講演会を通して学ぶ日、5月1日は創立記念日、創立の原点に触れたいと思います。2日は、4回目となる、東日本復興支援ウォーカソンです。頑張ってスポンサー集めに協力してほしいと願っています。

  さて今日も祈りで始まりました。この学校が大事にしている具体的なことの一つに祈りがあります。朝礼、終礼での祈り、ある時には聖歌で、行事や集会時の祈り、又御言葉に耳を傾ける昼の黙祷など、祈りで始まり、祈りで終わる一日と言えます。暁星に入学するまでは、このような体験はなかったでしょう。私たちは、具体的に何をどのように祈ったらいいのか分からないので、決められた祈りの文を使って祈っていますが、先には自分の言葉として、内面の祈りに変化していけばいいなと思っています。

  私たちの中には神仏に頼ることを好まない、受け入れない風潮があります。何事も自分の力で行い自分の力で可能性を勝ちとることをよしとするのです。でもそうだろうか?この世界には、自分の力の及ばないことは山ほどあります。自分の力を越えていてもしなければならないことがあります。そんな時どうするか。祈るしかないのです。そのようにして人は謙虚になるのです。自分が引き受けようとする「行わなければならない」ことの実現に向けて力を得るために、祈るのです。ここに集う私たちが、キリストを信じているか否かにかかわらず、つねに祈りを大切にし、他者のために祈る人でありたいものです。祈ることは、特定の宗教を信じている者に限りません。人は誰しも祈ります。

  「いただきます」と食事の前に手を合わせる人が多いのは、なぜでしょう。特定の宗教に属していない人であっても、感謝を表す自然の行為として、手を合わせる習慣を多くの人が持っています。それは自然な態度であり、感謝の気持ちが表れた態度です。

  また、人の死に対面したときも、人は自然と手を合わせます。この手を合わせる姿の根底には祈りの本質があります。手を合わせる行為は、自分本来の姿で、神に祈る時にふさわしい姿です。謙虚な心となれるもっとも心安らぐ姿勢なんでしょう。

 

『浅草観音』 高田 敏子

神さまや仏さまが

ほんとうにいらっしゃるかどうか

でもあの合掌したときの安らぎは

どこからくるのでしょう

右の手の悲しみを

左の手が支え

左の手の決意を

右の手がうけとめる

その上を流れる静かな時間

こうした姿勢を教えてくださったのは

どなたでしょう

ふりむくと青い目の外人さんも

手を合わせて

小さな観音さまと

なにをお話ししたことやら

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