第117回創立記念日

 季節が1ヵ月前に戻ったような肌寒さの中、大阪教区のカトリック堺教会から、高畠政行神父様をお迎えし、117年目の創立記念日ミサを行いました。高畠神父様には約40年前の女子高時代に宗教の先生としてお世話になりました。神父様曰く、暁星高校は教育者として大きな影響を与えられた学校だそうです。ミサの前には、創立者ルイ・ルラーブの生涯を映像でたどり、音楽科の鎌倉先生による「Stand Alone」を聴きながら裁縫伝習所から現在に至るまでの暁星の歴史をスライドショーで振り返りました。

 その後,テゼの祈りを全員で体験しました。テゼの祈りとはフランスのテゼ共同体で始まった祈りで、その特徴は美しいメロディーと単純素朴な歌詞を繰り返すことです。繰り返し唱え続けることで、私たちよりはるかに大きな存在に包まれ、自分を忘れて平和な心に満たされます。

 その後、ミサがありました。高畠神父様は説教で、『117年は想像できない数字だが、それをルラーブ神父を初め多くの神父様やシスター方、先生方、卒業生、保護者、生徒達が支えてきた。この使命を感じて欲しい。時間には、クロノスとカイロスがあり、クロノスとはある一定の流れで、一方方向への時間の経過を示す。カイロスは、質的時間、つまり行ったり来たり、止まったりする時間で、まさに祈りは質的時間。暁星には117年のクロノスがあるけれど、多くの人の祈り(=カイロス)が込められている。福音の朗読で読まれたヨハネ福音書、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままである。しかし死ねば多くの実を結ぶ」は、そのままの麦でいたら変化はないが、殻を破って養分を得たら、多くの実を結ぶ。これは人間にも言えることで、自分の殻を破って心を開いて、全ての人を受け入れることが大切だと、教えてくれている。ルラーブ神父が宮津のために命を差し出して、多くの実を結んだが、私達一人一人も出来るよ!というメッセージ。池川明の「体内記憶のある子ども達からのメッセージ」の中に、お腹の中のこどもの記憶について聴いてみると、生まれる前には光があった。しかし歳をとるにつれて、光はだんだん曇って、光の存在を忘れるようになった。嫌なこと辛いことは、アドベンチャーランドのように、ハードルが高い程輝き出す。高校3年間は辛いことや苦しいこともある。しかしどんな辛く苦しいことも乗り越える程、光輝く存在になる。何のために生きるか。それは人と人を繋ぐため。出会った友人と共に支え、力を合わせて頑張って欲しい。明日のウォーカソンを頑張って下さい。自分のチャレンジだけでなく、能登の人と繋がるために。』と熱い思いを持ってメッセージを送って下さいました。午後は、ルラーブ神父のお墓参りに出かけ、117年目を迎えることが出来た感謝を、祈りと共に捧げました。

【生徒の感想(3年女子)】

 高畠神父様が初めにミサのことについておっしゃられていた。「ミサは人と人、神と人をつなぐための記念」という言葉に胸を打たれた。正直、私の中でのミサとは単なる参加しなければならない儀式というか、ミサ自体に意味を感じていなかったように思う。しかし神父様は自分とその他の人との時空間を超えたつながりを持つという思いで、ミサに臨んでいるというのが、やはり心の持ちようが違うなと感じた。説教の時も教室に来られた時も、高畠神父様は人の役に立つこと(自分だけではなく人とつながること)を強調されていた。なぜだか、ものすごい説得力があった。神父様の経験から得られた結論だったのかもしれない。神父様はヨハネによる福音の一粒の麦の話を何度もされていた。私は自分に当てはめて聞いていた。中学校の頃は目立ちたくないし、声も小さくて届かないしで、殻に閉じこもってばっかりだったが、自分は高校に入って、本当に変わったと思う。今では自然と声も出るし、(まだ小さいけど)大役も任せられるようになった。でも神父様のいう「人の為を考えてみれば?」からはまだ硬いままである。時間が経てば経つほど自分ばかりになって「人のこと?自分ですればいいのに」と圧倒的個人主義の考え方が根付いてしまった。他人に関わるたびに腹が立ち、効率も悪くなるので一人が良い。神父様に質問した時、返ってきた答えを聞いて私はなんて子供なんだろうと思った。自分を軸にしているそもそもが子供だったんだ。だから神父様はあんなに柔らかく穏やかでいられるのだと思った。私はよく「なんで生きているのか?」と考えている。この答えは、人それぞれだと思うが、神父様は「人と人を繋ぐため」と言われた。神父様らしいなと思った。私も答えが見つかればいいなと思っている。

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