~ 心を形に 言葉を行動に ~
3年目の夏も京都暁星高等学校では1・2年生に東日本大震災支援ボランティアの募集を行いました。
第2次は18~22日に生徒4名・教員5名の9名が参加しました。お世話になるのは第1次同様、岩手県釜石市にあるカリタス釜石。活動は3日間だが3か月以上前から現地のスタッフが準備に対応して下さり、様々な出会いと経験の機会に恵まれ心も身体もフル回転することが出来ました。
今年度の支援の様子をご覧になりたい方は下をクリックしてください。
★ 東日本大震災支援ウォーカソン 実施報告
8月18日(日)
12時半前に出発。ボランティア参加が昨年に続いて2回目の生徒が2人いることもあり、落ち着いた雰囲気で出発しました。
交通事情も良く、15時間ほどで遠野に着いた。前回の訪問では涼しかったが、今回は湿度と気温が高く残暑を思わせる気候となりました。
8月19日(月)
早朝の釜石駅で復興の鐘を見学してからベースに。第1次同様、7時から聖堂でテゼの祈りをお願いし、被災された人々のために祈り、聖書のみことばに耳を傾け、神への賛美をくり返し歌う中で、これから始まる3日間に向かう気持ちを整えました。
8時にベースを出て大船渡市砂子浜へ。ここでは京都暁星高校のウォーカソンで養殖ロープの購入費用などを支援してきた、ホヤ養殖漁の作業をさせていただきました。
砂子浜は入り組んだリアス式海岸を岬に向かってくねくねと続く上り下りの道のほぼ終着にある。小さな漁村の中でもホヤ養殖を専業とするたった2軒の家族に、津波の被害に対する保証は漁船の購入補助しかありませんでした。このような支援の網の目からこぼれた部分にも目を向けようというのが今回の繋がりになりました。
作業場は集落より高台にある広場で、ここに養殖ロープを並べて端のほつれを防ぐために紐でくくること、種を付けるロープをつるす別のロープの長さを揃えて切り、端を加工することをされており、暁星チームもその作業をさせていただきました。日差しが強く暑い上にロープの加工に力がいるので、簡単そうに見えてなかなか難しく、全くの素人に、何度も手本を見せていただき、手間取りながらも作業を行いました。
ロープを加工する作業を一緒にさせていただきました。
簡単そうに見えて、実は力がいるのですごく難しい作業です。
普段は夜明け前から暑くなるまでの作業であるが、私たちの都合に合わせて特別に昼過ぎまで作業行っていただきました。また、作業を終えるとホタテのバーベキューを御馳走してくださるなど、楽しい交流の場となりました。本当にありがとうございました。
大きなホタテをご馳走になりました。一番楽しみにしていたのは・・・教員?
ホヤもいただきました。海のパイナップルと呼ばれています。
3年目の被災地の人々との関わりを継続する中で、お互いを名前で呼びあうこと、与えるよりも教えて頂きながら手伝うことが大切だと感じられる日となりました。
8月20日(火)
早朝6時45分にミサがあり、大阪池田教会から来ている御受難会の染野神父が司式をしてくださいました。染野師は釜石出身で、今回は大阪教区の助祭・神学生とともに釜石と福島で活動するとのこと。ミサでは釜石への布教初期に働き、1896年6月15日、釜石の信者を訪問している時に三陸大津波にのまれ、29歳の若さで殉職した、パリミッションのリスパル師について話されました。今は天からカリタス釜石の活動を見守っていて下さるようにと願い、この地に生きる人々へ神の導きを祈りました。
午前中は第1次でも行った、社協ボランティアセンターによる片岸海岸のビーチプロジェクトに参加。ベースからは京都暁星チームとその他ボランティアに来ている高校と総勢70名ほどで参加。気温は高く湿度もあって第1次に比べてきつかったですが、大勢で取り組んだことで広範囲の草が抜かれてきれいになりました。暁星チームはこのために一人一人の鎌を購入して持参し、黙々と作業した。今後も続くビーチプロジェクトに利用してもらうように鎌はベースに寄付されました。
今回は人数が少ないですが、黙々と作業。
暁星チーム9名はベースに戻り、午後からは聖堂で震災の語り部である矢浦さんと過ごすプログラムである。1次に続いて今回も快く引き受けて下さりました。映像を見せて語り、現地に出向いて鵜住居の駅と防災センターで話をして下さった。
1次に引き続き案内してくださった防災センター。
若い人に伝える使命を感じておられる矢浦さんの思いが、今回の参加者にも十分伝わったと感じます。
防災センターには前回の訪問時には建設中だった慰霊施設が完成していました。8月10日に慰霊祭が行われ、箱崎白浜で1次のメンバーが作った七夕飾りや復興の短冊もその時に飾られたとのこと。木造のしっかりした建物は周りを花で囲まれ、中は献花台が窓からの光を受けて静かな空間となっています。被災した建物は今後取り壊される予定で、このような慰霊施設が作られたが、遺族の中には防災センターの取り壊しに反対される方もおられるとのこと。遺族にとってここは辛い場所であり、手を合わせて祈り、亡くなった家族と出会える場所で。この悲しみをくり返さないために、「もの言わぬ語り部」として残したいという。
私たちにはどちらの気持ちにも深い悲しみがあることが窺い知れるばかり。最後に矢浦さんとの別れに際し、今回は4人の生徒が一人ずつ感想を伝えました。言葉に詰まり涙をぬぐいながら、言葉少なに話した内容に矢浦さんはうなずいて、それでいいですよと受け取って下さりました。
整った慰霊施設より、この建物には確かにもの言わぬ語り部として私たちの心に直接訴えるものがあります。
8月21日(水)
朝のミサは染野神父と大阪教区の松永助祭の司式で行われました。その後、甲子第3・4仮設住宅でのホットケーキサロンを担当。ここは小佐野町から山間に進んだホタルの里と呼ばれる場所にあり、カリタス釜石の通常の活動ではほとんど行く機会がない所です。しかし、カリタス釜石スタッフと行政との会合などで、カリタス釜石などとの関わりが必要と思われる地域の一つに挙げられたとのこと。
暁星チームはそれぞれの集会室に二班に分かれて入り、ホットケーキと飲み物、かき氷を用意。事前にカリタス釜石スタッフが自治会長さんと会って話し、さらに各戸に私たちのことを知らせるチラシを入れて下さったので、10時からの開始早々住民の方が来て下さいました。
平日で仕事に出掛けている事もあり、高齢の女性が多かったですが、午後からは子ども連れの若い女性なども来て、子供達は高校生との楽しそうに会話していました。
一方で、被災してホタテ御殿と呼ばれるような大きな屋敷などすべてを失ったこと、この仮設住宅に入るまでの数ヶ月を盛岡のホテルで暮らし、希望の場所に入れず最後に交通の不便なこの場所しかなくて入ってきたこと、いろいろなところから最後に来た人が多くて互いに知り合うことが難しいこと、買い物はバスで行けるが帰りは待つのでタクシーを使うこともある、3年目になって木の杭で打っただけの基礎が傾いて窓を閉めても隙間ができる、などの様々な苦労を話す人も。ただ話を聞いて頷くことしかできませんでしたが、「遠いところからよく来てくれたね」と言って下さる言葉に力づけられ、この人々の思いを忘れず伝えるということを改めて感じさせられました。
お盆明けで久しぶりに集会室に集まったということで、にぎやかに話が弾んでいました。
ベースに戻ると、聖堂で仙台教区の平賀司教様が私たちの帰りを待っていてくださいました。NPOカリタス釜石の理事長として理事会に出席した後に時間を取って頂き、私たちの上に神の祝福があるようにと祈って下さいました。
小さな学校の小さな活動だからこそ、社会の中で見過ごされがちな人々との交わりを最優先して動くことが出来る。そこに教会の視点もあるのだということが、この出会いによって感じられました。
夕のミーティングに戻り、出発の挨拶をして感謝の気持ちで別れを告げた。午後7時過ぎに京都に向かい出発。
こんなきれいな空ともお別れです。
8月21日(水)
翌日8月22日(木)午前11時到着。しかしこれで終わりと思う者は一人もいません。ここでの出会いがこれからの私たちの歩みの原動力となるでしょう。
今夏も2回のボランティアを実施させていただきました。震災から数年たった今でもボランティアを必要とし、未だに手が行き届いているという状況ではないことを改めて感じるとともに、今回も新たな出会いに恵まれたことに深く感謝します。
その後のニュースとして、9月1日(日)ビーチプロジェクトできれいになったビーチに1日限りの遊泳許可が下りて400名もの人が集まって海水浴を楽しんだそうです。カリタス釜石のボランティアたちによって、仮設のトイレや縁日屋台も準備されたそうです。また、バンドのライブなど他の団体も来てとても賑わったとのこと。子供たちが海で思いっきりはしゃぐ姿は、この活動に関わったすべての人にとって大きな喜びとなったと思います。私たちをはじめいろんな方々が地道に活動してきた”点”が”線”となっていることは私たちにとっても嬉しいニュースとなりました。
私たちの活動の一つ一つの力は微力ですが、継続的に関わることで大きな力になるということを信じてこれからも活動していければと思います。
まだまだ暁星高校の支援活動は続きます。。。