おはようございます。
改めてウォーカソンご苦労さまでした。今週からキリスト教ではアドベント待降節といって、救い主イエスキリストの誕生を待ち望む季節になりました。アドベントには「到来」「接近」「出現」などの意味があります。今年は昨日の日曜日から12月24日までの4週間を待降節と呼びます。今週一本のローソクに火がともされました。このローソクが4本になったらクリスマスが来るのです。この待降節の間、学校クリスマスに向けて祈りを大切にしながら、手作りの心のこもった取り組みをしてほしいと思っています。一日一日大事にすごしましょう。先週から昼の黙とうでは、聖書からではない、短い言葉を放送部の人に読んでいただいています。味わってください。自分のあり方、生き方を考える。今どうすることが求められているのか、真剣に考えてみましょう。
話は変わりますが、私はウォーカソンの翌日、痛い足を引きずりながら、人と会うために出かけました。往復の列車の中で、一冊の本を読みました。「愚者が訊く」という題名で、北海道の富良野自然塾の塾長、倉本聰さんと副塾長の林原博光さんが、さまざまなジャンルの専門家と対談した内容が書かれている本です。3年生は倉本聰の「學」をHRで見たと聞いていますが、どんな感想を持ったのでしょうか。
この本の「おわりに」を副塾長の林原博光さんが書かれています。少し長いのですが、ゆっくり読んでみたいと思います。
この半世紀の50、60年で日本は激しく変わった。
思い起こせば電話さえ普及していなかった昭和30年代、線がつながっていない電話で人と話ができるなど想像もできなかったし、トイレットペーパーすらなく、新聞紙を使っていたあの時代、水が下から出てきて自動的にお尻を洗ってくれるなど思いもよらなかった。夢物語が現実に変わり、現実が当たり前に変わっていった半世紀だった。
このような技術の進歩に伴って、日本の社会は劇的に変わっていった。
モノが増えた。社会の機能やルールも増えた。必然的に「情報」も増えた。
情報が増えることによって人々の暮らしは確かに便利になったが、その一方で、多すぎる情報のせいで物事の原点や本質にたどり着くのが難しくなってきた。
忙しい日々を送っている人たちは溢れ返る情報に一々付き合っていられなくなり、物事をちゃんと理解しないまま世の中が流れていっているように見える。人々が情報の洪水に押し流され漂流し始めている。
情報化にはこうした量の問題とは別に質の問題もある。
戦後に出現したテレビや、急成長のインターネットなどのメディア情報は、受け手にとっては実感を伴わない間接情報でありバーチャル情報であるということ。
私たちはテレビやインターネットを通して、知ったつもり、分かったつもりになっているが、実際に本物に出会って実感を持って理解することは極めて少ない。ほとんどの物事を頭の中だけで理解しているのが現状だが、これで本当に物事を理解したと言えるだろうか?
自然との関わり方についても同じことが言える。メディアが普及していなかった時代の人たちが持っていた体験的自然観はどこかに消え去り、今の多くの人たちはメディアによって伝えられるバーチャルな自然観しか持ち合わせていない。特に都会に住む人たちは野外でするバーベキューや団体で行く観光旅行程度の自然体験しかなく、自然に対する根源的な理解や畏敬の念など期待する方が無理というものだ。だから、環境問題に関しても目先の経済的な損得など表層的な捉え方しかできなくなって来ている。
20世紀の後半と同じように、これから先の21世紀も世の中はまたまた大きく変わるだろうと思うが、問題は良い方に変わるか、悪い方に変わるかだ。世界の科学者たちの予測を見ても、21世紀は決して楽観的な世紀ではない。
今、私たちは、持続可能な社会に通じる「希望の道」を選ぶか、持続不可能な社会に通じる「絶望の道」を選ぶかの瀬戸際の分岐点に立っているように思える。
今こそ、細分化された大量のバーチャル情報の渦から抜け出して、人間とはどういう生き物か、地球とはどういう星か、その関係はどうあるべきかといった原点に立ち返って、地球環境問題を考え直す必要があると思う。