校長講話 抄録

おはようございます。

 もう月曜日です。1週間のすぎるのが早いです。先週は出張が多かったせいもあるのでしょう。私は毎日寝る前に明日しなければならないことをメモします。時間があればしたいことも書くのですが、実際には計画通りにはいきません。
 しなければならないことが全部終わりません。もちろんしたいことは後回し。時間がとれません。
 みなさんはどうでしょうか?したいことを優先して時間をとりすぎて、しなければならないことを後回しにしている人はいないでしょうか。一度振り返ってみてください。
 さて、話しは変わりますが、先週は文化祭の取り組みにあたって”それぞれの違いを受け入れあいながら一つのものを作り上げていくのです。”という話しをしました。毎年、この時期に読む聖書の箇所があります。コリントの信徒への手紙12章14節~26節、一つの体、多くの部分です。自分で読んで味わってみてください。 3年生にとっては修学旅行でも取り上げられた箇所です。1年生は終礼の時にでも担任の先生に読んでもらってください。
 私たちは自分と他人を比べて優越感に浸ったり、逆に劣等感に陥ったりします。

 ドイツの作曲家シューマンの言葉を見つけました。読んでみたいと思います。

皆が第一ヴァイオリンを弾きたがるなら、どうして管弦楽が成り立つだろうか。
第一ヴァイオリンとトランペットだけでシンフォニーができあがるわけではない。
同じことがわれわれについても言えるのである。もしわれわれが同じ才能と同じ使命とを与えられているとすれば、大工、パン屋、道路工事などの仕事は、いったい誰がするのだろう。神が千差万別の才能を恵まれたのは、それぞれの人に自分もなんらかの意味で他人のために役立つ者だということを自覚させたのであり、また人びとの間に愛の結びつきを生み出すためでもあった。
創造主なる神によって、われわれの一生がはかられるとき、その尺度は何だろう。
それは、われわれに与えられた才能の数や量ではない。その才能を使ってどれほど人々のために尽くしたかということである。

 私たちは自分の生き方をこのように見ているでしょうか。いたずらに他人をうらやましいと思ったり、自分を軽んじたりしていないでしょうか。自分が持っている才能は他人の幸せに尽くすよう神様が私たちに一人ひとり授けてくださった賜物なのです。決して無駄にしないようにしたいです。

 文化祭に向けての本格的な取り組みが始まります。クラス、クラブの発表の準備、そして係の活動です。例年文化祭の来場者は300人を越えています。わが家を訪問されるお客様です。
 hospitalityの心を形にする。行動に移すのが係活動です。よろしくお願いいたします。

 ≪コリントの信徒への手紙12章14節~26節≫

体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要がありません。神は、見劣りする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分がお互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

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