3年生黙想会 春山ミカエル・ラップ神父様
テーマ:聖霊(善)に導かれて,祈りによって冒険(アドベンチャー)しよう
卒業を間近に迎えた2月24日と25日,3年生の黙想会が行われました。今年はサレジオ神学院の春山ミカエル・ラップ神父様をお招きして,2日間お世話になりました。神父様は優しい雰囲気でユーモアがあり,とても温かい眼差しで生徒たちと接していただきました。
2日目の最後にはみことばの祭儀が行われ,生徒一人ひとりが神父様に祝福していただきました。カトリック学校ならではの雰囲気で2日間を過ごすことができ,生徒たちのこれからの人生の歩みのために大切なものが心に刻まれたと思います。
生徒の感想
黙想会と聞いて一体何をするのか、どんな方が来られるのかと少しドキドキしていました。この三年間で、多くの神父様のミサにあずかりましたが、神父様は少し堅苦しいイメージがあり、それが払拭されたのは二年生の時のクリスマスで、今回のラップ神父様もとても明るくハツラツとされた方で、穏やかな口調が印象的でした。
まず、難民の話から始まり、ご自身の体験をふまえてのお話には、とても引き込まれました。その中で「祈りを叶えるのは私達」という言葉が強く記憶に残っています。願い事や祈りは、神様が叶えてくれるものだと思い込んでいましたが、そのときのことを思い返してみると、確かに必ず「誰か」がいないと私の願いや祈りは叶わなかったことに気付きました。誰かの祈りを、神様を通して誰かが叶える。私たちは今からその「誰か」の一人になるんだなと思い、それならば私の願いや祈りは、誰かの祈りのはずだから、私が叶うよう、実現するように努力をすれば、その人の祈りも叶うのでは?と思いました。たとえどんなに小さいことでも、自分の良心、思いに従わないと後悔してしまうと思ったので、小さいことでも、自分の手を差し出すことをためらわない気持ちを忘れないようにしようと思いました。
祈りについてお話された時も、私に新しい考え方を与えてくださいました。聖書の創世記の中にある「神は地を人に支配させた」という箇所について、私は人が支配しているなら、正直神様はあまり関係なくて、思うようにしていいんじゃないか,と考えていました。しかし「神はご自身に似せて人を創られた」とあり、そしてその人に支配させることを、神父様は「神様に代わってこの世界を良くしていく」と言われた時、ただ支配させているだけではダメなんだと気付きました。それなのに各地の紛争や小さな争い、それに伴う難民は増える一方で、とても「良く」しているとは言えない状況で、どうして誰も望まないことが続くのだろうと考えてしまいます。難民の問題も、もっと一人ひとりが他人を自分の友人のように思いやることができれば解決すると思います。罪のない人々があんなにたくさん路頭に迷っていたら手を差し伸べずにはいられないと思うのですが…。
このように考えられるようになったのは、この学校に入学してからだと思います。私には世界を変えられるような大きな力も、地位も、権力もありません。でも、私には私の役割がきっとあるのだと思います。神父様は、地球を舞台に例え話をされました。その話を聴いて、私は少なくとも主役ではなく、裏方なのだろうと思いましたが、私を中心に考えた人生では、私が主人公かもしれないとも思いました。その私の人生という舞台を支えてくれた人、今から支えてくれる人、パートナーになる人、たくさんの登場人物がいて一つの舞台ができあがると思います。私がこうして暁星高校に来られたのも神様という監督の意向だったのかもしれません。そう考えると、今からどんな苦しいことがあっても、意味のないことはないはずだと思います。どんな出会いにも感謝したいと思えるようになりました。
今日のみことばの祭儀で神父様に祝福していただき、一つのメッセージを一人ずつ受け取りました。私が頂いたメッセージは、なんだか諭されているような、これから新しい場所で生きていく上でとても重要な、そんな言葉でした。とても濃密な二日間で、今日見た「ドン・ボスコ」の映画では、人を信頼することの難しさと信じる力の大きさを感じました。正直、私はあそこまで人を信頼できる自信がありません。でも、信じるべき時に誰かを信じることぐらいは出来ると思います。この二日間の内容は一日などでは消化できるものではなく、胸がいっぱいで苦しいくらいです。この経験ができたのも、ラップ神父様からお話をいただけたことも、いただいたメッセージも、全て神様のお望みになったことと思い、深く感謝します。貴重な体験でした。いただいたメッセージ、言葉、思いを人生に活かしたいと思います。