校長講話 抄録

 おはようございます。

 さて、私たちは毎年5月1日、創立記念日には創立者ルラーブ神父の生涯、生き方を学びます。そして毎年この時期もう一度思い出します。ルラーブ神父は今から75年前の1941年2月1日、大阪の病院で84歳の生涯を終えました。今日が命日です。

 1857年、フランスのリヨン郊外ののどかな田園地帯の小さな村で神父は生まれました。神父は28歳で神父になり、1885年、キリスト教の教えを述べ伝えるため、その愛を、身をもって実践するために日本に来られました。それから56年間の生涯を終えるまで、一度もフランスに帰ることなく、この宮津の地で一生を終えられました。まわりの人たちの願いから、この暁星の創立に踏み切られたのは、50歳を過ぎた頃でした。明治時代ですから、平均寿命も高くなかった頃ですから本当に晩年でした。ルラーブ神父を突き動かしたのは何だったのか?神父はこの丹後の現実を十分見て、当時ちりめんの産地として朝から晩まで機織りをして、勉強の機会のない女性の学びの場として、やがて親になる女性たちが心豊かなしっかりした女性になるための学びの場の必要性、大切さを感じられたのでしょう。そして、経済的に自立していくために、裁縫を教えられたのです。年とった同窓生には、着物を縫ったり裁縫される方が多くおられました。そして本当に物を大切にされました。その頃の教育のたまものでしょう。

 そして、神父70歳の時、ここ丹後を大きな地震がおそいました。その時も岩滝町に診療所を設立し、人々を助けるために日夜働き続け、その時の無理が神父の身体を衰弱させるきっかけになったと記録されています。80歳になって一度フランスにもどってくるようにとフランスからお金が送られてきたのですが、そのお金で暁星幼稚園を建設されたのです。このように神父はその土地のその時の必要性を敏感に察知して、その痛みを共有してくださったのだと思います。

 神父は「偉大な建築ほど目に見えない地価の基礎工事が必要だ。土の中に打ち込まれる一本の杭、全く縁の下の力持ちだが、このかくれた基礎がなければ建物は建たないのだ」と自分自身に言い聞かせておられました。この地の自然の厳しさ、夏には湿度が高く、冬は寒い宮津で神経痛という持病を持ち、動くたびに痛みを感じておられたでしょう。しかし神父は「私はフランス生まれの日本人だ。宮津を離れたくない。死んだら惣村の教会墓地に葬ってほしい。死んだら天国から丹後を、暁星を見守りたい」と話されていたそうです。神父のこの地を思う情熱の原点。信仰についていつも考えます。「困難に遭った時、神様は必要ならばその都度必ず力を与えてくださる」確信を持って言い切られたルラーブ神父です。ルラーブ神父が今もこの学校を見守ってくださっていることを信じ、祈りましょう。

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